2006年03月27日

花展の後

花展の後1

御家元からいけばな展のねぎらいの手紙を頂いた。
思えば2月の中旬から3月の中旬にかけては、他の仕事をしながらもいけばな展の事に集中していた。終わってから少々放心状態でした。

会場で使った結界をこんな風に自宅で使っています。
畳は学生さんたちが寮の自室に畳コーナーでも作るのか持ち帰った。
残った材料は予算の無い親父の菓子屋にでも使おうかと考えている。
その前にオブジェでも造ってみようかな。


花展の後2花展の後3





工事中の写真を少しお見せします。
私にとっては、絵に描いてしまえばそれで一段落で、出来るのは当たり前なのだが、今度ばかりは勝手が違った。
頭の中では成立してはいるが、なんと言っても初めての仕事です。
私のところの準備が間に合わなくて花展が開けないという夢を何度か見た。
また出来上がりが果たしてどの程度の完成度で仕上がるかも不明だった。
お家元に満足していただけるだろうかという不安も沸いてきた。
花展の後4花展の後5





野点の茶席などのしつらえの様なものだったら、その場にあわせて臨機応変に対応していけるのだが、今回はそうは行かない。
待ったなしの一発勝負。しかも失敗は許されない。
15年か20年に一回の流派最大のいけばな展である。
日にちが近づくにつれて、これは大変な仕事を請けてしまったものだという気持ちが大きくなっていった。

銀座に乗り込む3日前に、私は師匠の墓参りに行った。
お家元に渡した家元席の模型の写真を師匠の墓の片隅にそっと置いた。
報告のつもりが、手を合わせていたら、どうか私にこの仕事をうまく仕上げさせてくださいという言葉で、頭の中が埋まっていた。

ずっと私を導いてくれた師匠、お家元とのご縁もこの師匠が道筋を付けて行ってくれたのです。
生前私が伺うと、布団の上できちんと座って迎えてくれた。
丁寧に話を聞いてくれたうえで、あふれるように話をしてくれた。
身にしみる話ばかりだった。
不自由な体で、痛いところばかりで、辛いと周りにはこぼす事もあったというが花を生けるということに、後進を育てるということに、最後まで暖かな情熱をたやすことはなかった。

私は現場で意匠的なことを決めるときに、ふと師匠を思う事が今でもある。
先生ならどう言うだろう。先生これでいいでしょうかと。

私は、師匠の墓の前で、先生助けてくださいと手を合わせたのかもしれない。

花展の後6





いけばな展の終わった後、片付けの手伝いに来た日本建築専門学校の学生を家元に紹介してねぎらいの言葉を掛けていただいた。
記念写真も撮らせていただいた。

お家元と固い握手。
お家元の目に涙が浮かんでいた。
ここに鈴木先生が居てくれたら、、とお家元に言いかけたら、突然涙があふれて来て言葉にならなくなってしまった。


先日、師匠の墓に本物の写真を持って報告に行ってきた。それでやっといけばな展の仕事は終わったような気持ちになったのです。

宏道流の花は凛としていて本当に床の間に似合う花です。
仮設の会場にも本物の素材を持ち込むという私の試みは、皆さんからとても高く評価していただきました。
本物の素材の力をあらためて感じた次第です。






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